●行列の名称
●行列の概要
江戸時代婦人列 <京都市地域女性連合会奉仕>
江戸時代の京都で話題となり活躍した女性が登場します。
和宮(かずのみや)はご祭神孝明天皇の御妹君で、公武合体のため将軍家茂に降嫁されました。行列では輿入前16歳頃の近世女房(にょうぼう)装束で宮廷内のお姿を表しています。
蓮月(女流歌人。後年尼となり蓮月と称しました)
玉瀾(池大雅の妻)閨秀画家として南画をよくしました。
中村内藏助の妻(京都銀座で巨万の富を築いた妻)妻女の衣裳比べで抜群の誉れを得たといわれ、『翁草』の記事により考証されています。
お梶(女流歌人で、祇園に茶店を営んでいました)
吉野太夫(寛永の頃、京都六条三筋町の名妓、後に豪商灰屋紹益の妻となりました)
出雲阿国(出雲大社の巫女)京都四條河原で「やや子踊」や「かぶき踊」演じ、歌舞伎の創始者とされています。
和宮(かずのみや)はご祭神孝明天皇の御妹君で、公武合体のため将軍家茂に降嫁されました。行列では輿入前16歳頃の近世女房(にょうぼう)装束で宮廷内のお姿を表しています。
蓮月(女流歌人。後年尼となり蓮月と称しました)
玉瀾(池大雅の妻)閨秀画家として南画をよくしました。
中村内藏助の妻(京都銀座で巨万の富を築いた妻)妻女の衣裳比べで抜群の誉れを得たといわれ、『翁草』の記事により考証されています。
お梶(女流歌人で、祇園に茶店を営んでいました)
吉野太夫(寛永の頃、京都六条三筋町の名妓、後に豪商灰屋紹益の妻となりました)
出雲阿国(出雲大社の巫女)京都四條河原で「やや子踊」や「かぶき踊」演じ、歌舞伎の創始者とされています。
豊公参朝列 <平安講社 第十社(伏見区)奉仕>
楠公上洛列 <平安講社 第九社(右京区)奉仕>
中世婦人列 <大原観光保勝会奉仕・桂・桂東婦人会輪番奉仕・京都花街組合連合会輪番奉仕>
中世とは広い意味で平安時代後半から桃山時代に至る時代をいいます。この列には歴史上の人物だけではなく、職業集団ともいえる女性も加わっています。
大原女(洛北大原の婦人)は、古来薪や炭等を頭にのせ京の町へ売りに出る風習がありました。これは室町末期の姿です。
桂女(桂川の鮎や飴を京の町々に売り歩いたり、婚礼や出産の時に祝詞をとなえる巫女などを業とした女性)室町頃の小袖に「桂包(かつらづつみ)」という独特の姿となっています。
淀君(豊太閤の側室で浅井長政の娘、秀頼の生母)ここでは桃山時代を代表する豪華な衣裳を纏った外出姿です。
藤原為家の室(阿仏尼)『十六夜(いざよい)日記』の著者で、所領訴訟のため東下りする旅姿です。
静御前(源義経の愛妾)この行列では女人の舞装束として水干を着けた白拍子姿です。
大原女(洛北大原の婦人)は、古来薪や炭等を頭にのせ京の町へ売りに出る風習がありました。これは室町末期の姿です。
桂女(桂川の鮎や飴を京の町々に売り歩いたり、婚礼や出産の時に祝詞をとなえる巫女などを業とした女性)室町頃の小袖に「桂包(かつらづつみ)」という独特の姿となっています。
淀君(豊太閤の側室で浅井長政の娘、秀頼の生母)ここでは桃山時代を代表する豪華な衣裳を纏った外出姿です。
藤原為家の室(阿仏尼)『十六夜(いざよい)日記』の著者で、所領訴訟のため東下りする旅姿です。
静御前(源義経の愛妾)この行列では女人の舞装束として水干を着けた白拍子姿です。
城南流鏑馬(やぶさめ)列 <平安講社 第四社(中京区・下京区)奉仕>
流鏑馬は平安朝以来行われた騎射の技で、馬場に3箇所の的を立て、射手が馬を馳せつつ矢つぎばやにこれを射るものです。
承久3年(西暦1221年)5月、後鳥羽上皇は朝廷の威信回復をはかられ、流鏑馬に託して城南離宮に近畿10余国の武士1700余人を召し集められ、華美を競い武具を飾って盛大に行われたと伝えられています。
本列は狩装束の射手武士(いでぶし)を中心に5組で組織されています。
狩装束の騎馬の武士は綾藺笠(あやいがさ)をかぶり、直垂(ひたたれ)を着け、手に弽(ゆがけ)をはめ、左手に射籠手(いごて)、腰下に鹿皮の行縢(むかばき)をつけ、物射沓(ものいぐつ)を履き箙(えびら)を負い、太刀、腰刀、鞭を帯に着け、弓、長刀を郎党に持たせた、さっそうとした姿です。
承久3年(西暦1221年)5月、後鳥羽上皇は朝廷の威信回復をはかられ、流鏑馬に託して城南離宮に近畿10余国の武士1700余人を召し集められ、華美を競い武具を飾って盛大に行われたと伝えられています。
本列は狩装束の射手武士(いでぶし)を中心に5組で組織されています。
狩装束の騎馬の武士は綾藺笠(あやいがさ)をかぶり、直垂(ひたたれ)を着け、手に弽(ゆがけ)をはめ、左手に射籠手(いごて)、腰下に鹿皮の行縢(むかばき)をつけ、物射沓(ものいぐつ)を履き箙(えびら)を負い、太刀、腰刀、鞭を帯に着け、弓、長刀を郎党に持たせた、さっそうとした姿です。
平安時代婦人列 <京都花街組合連合会輪番奉仕・京都市地域女性連合会奉仕>
遣唐使廃止頃から日本の文化は国風化がすすみ、400年も続いた平安時代をいろどる多彩な女性風俗の変遷を表したものです。
巴御前は、木曽義仲の寵愛をうけた武勇のほまれ高い女性で、義仲にしたがって出陣したときの鎧姿です。
横笛(建礼門院の雑仕女)滝口の武士斎藤時頼と恋におち、嵯峨へ時頼を訪ねる市女笠(いちめがさ)に袿(うちき)の旅姿です。
常盤御前(源義朝夫人)義朝亡き後、平清盛に許しを乞うため三児(今若・乙若・牛若)を連れて六波羅へ名乗り出る時の姿です。
清少納言(枕草子の著者)紫式部(源氏物語の作者)前者は唐衣に裳を着けた女房装束(十二単)姿で女官の正装であり、後者は小袿衣(こうちぎ)姿で略装です。
紀貫之の娘(貫之は延喜の頃の名歌人でその娘)10世紀半ばの若い未婚女性の平素の姿です。
小野小町(宮廷に仕えた有名な女流歌人)正倉院御物や神像などから考証した唐風の残る女官の礼服姿です。
和気広虫(和気清麻呂公の姉)慈悲深くわが国孤児院の起源をなした女性で、唐風を色濃く残した規定外の平服姿です。
百済王明信(王敬福の曾孫で右大臣藤原継縄(つぐただ)夫人)桓武天皇の信頼厚く、尚侍(ないしのかみ)として天皇を陰からささえた女性で、女官の礼服姿です。
巴御前は、木曽義仲の寵愛をうけた武勇のほまれ高い女性で、義仲にしたがって出陣したときの鎧姿です。
横笛(建礼門院の雑仕女)滝口の武士斎藤時頼と恋におち、嵯峨へ時頼を訪ねる市女笠(いちめがさ)に袿(うちき)の旅姿です。
常盤御前(源義朝夫人)義朝亡き後、平清盛に許しを乞うため三児(今若・乙若・牛若)を連れて六波羅へ名乗り出る時の姿です。
清少納言(枕草子の著者)紫式部(源氏物語の作者)前者は唐衣に裳を着けた女房装束(十二単)姿で女官の正装であり、後者は小袿衣(こうちぎ)姿で略装です。
紀貫之の娘(貫之は延喜の頃の名歌人でその娘)10世紀半ばの若い未婚女性の平素の姿です。
小野小町(宮廷に仕えた有名な女流歌人)正倉院御物や神像などから考証した唐風の残る女官の礼服姿です。
和気広虫(和気清麻呂公の姉)慈悲深くわが国孤児院の起源をなした女性で、唐風を色濃く残した規定外の平服姿です。
百済王明信(王敬福の曾孫で右大臣藤原継縄(つぐただ)夫人)桓武天皇の信頼厚く、尚侍(ないしのかみ)として天皇を陰からささえた女性で、女官の礼服姿です。